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2019年5月31日 (金)

ちゃんと今を

ランナーにも、勿論色々な人が居るけれど、総じて前向きな人が多い。

先日の勉強会で、「私、ありがとうランナーになろうと思っています」と仰った方がいた。Img_3284

沿道のサポートに感謝するだけでなく、自分の足や体、頑張りにも「有り難う」と言い続けようと仰る。

そして昨日よりも今日、来年、そして再来年を自分にとって最高の年にするのだと。Img_3286

目元には和やかな微笑みを浮かべ、とても超ウルトラマラソンを走る人とは思えない。Img_3287

彼女の話を聞きながら、「あぁ、この人は今を生きようとしているのだ」と思った。

翻って移り気の私なぞは、何時もキョロキョロ何か良いことはないかと、今を生きている自覚はない。Img_3288

今日は特別支援を含め、保育園の大勢の子供達が我が家を訪れた。

サツマイモの蔓を挿し、ラッカセイを植えるためにやってきたのである。Img_3289

畑を準備していたとは言え、そこは一糸乱れず作業をすると言う訳には行かないのが子供だ。

芋の蔓挿すことがどんな意味を持つのかよりも、手元の土塊や友達、手洗いの水の方が面白い。Img_3290

目の前のことに精一杯な子供達、そうやって色々なことを経験しながら成長していくのだ。

さて、成長の伸びしろの少なくなった私などは、どうやって今を生きれば良いのだろうか。Img_3291

私の毎日は、ブドウの世話をしたり、山を走ったりすることだが、それ自体懸命ではあるが果たして命を燃焼しているのかどうか。

何時の間にかドンドン年月だけが経過していくようで、時々「これで良いのかなぁ」と思う。Img_3292

今生きるとは、或いは今(この時)を感謝することかも知れない。

今日は、大根を収穫し、新たに夏大根を蒔いた。

 

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2019年5月30日 (木)

古き良き時代

私の子供の頃は、そう・・・生活は大変だったけど皆おおらかで、農作業なんかも助け合っていた。

籾摺り(籾を玄米にする作業)は、村の若い衆の仕事だったし、田植えは「結い」の象徴だった。Img_3282

それが高性能の田植機が出来、ライスセンターの整備が進んで、村の助け合いは霧消した。

助け合いを前提に出来ていた村の仕組みは、自ずと個々バラバラ勝手な関係に変わっていった。Img_3281

私の子供の頃の話だが、これは町場の生活だって同じ事で、個々人が人の助けを借りずに生きられるようになった。

家庭でも同様に、炊飯器や冷蔵庫、電子レンジなどの登場で主婦のありがたさが激減した。

それはそれ、便利になるにこしたことは無いが、私達の心がドンドン孤になってきたのである。Img_3280

而して世の中、奇天烈な事件・事故が続いているが、残念ながら一種の現代病だと思っている。

一昨日の川崎の事件にしても、キチガイの仕業には違いないが、恐らくヤツはこの時代の迷子だったのだ。

私は毎朝「お早うございます」と叫んでいるが、子供達から返事をしてもらえる人がどれ程居るだろうか。Img_3279

挨拶は、そう・・人と人との信頼関係によって生まれるのである。

私の立哨も風雪に耐えて、この四月で14年目に入った。

そして今日は、学校で子供達との対面の(年に一度の)会があって、・・やっぱり子供達は可愛いね。

あんな惨い事件が再び起こらないよう、地域の人達に奮起してもらいたいのだが、中々手を挙げる人は居ない。

どんな事件が起ころうが、それは人事なのである。Img_3278

「毎朝、街頭に立って何になる。バカバカしい」と言われたりもするのだが、そんな細やかな行動が未来に繋がる。

古き良き時代は昔のことだが、今を創るのは私達なのである。

 

 

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2019年5月29日 (水)

未来への楽観

四十歳前後まで、何かと(試験や就職、仕事や家族、子供、事故etc)不安で仕方が無かった。

バブルが崩壊して経済は低迷を続ける頃になって、逆に私の気持はぐう~んと落ち着いてきたと思う。Img_3258

国の経済云々よりも、子供の成長やも含めメンタル的な安定期を迎えたからだろうと思っている。

以来、私は将来に対してかなり楽観的な見方をするようになった。(ちゃんと、成るようになる)

とは言え世の中には、無差別殺人やら地球温暖化と異常気象、下世話だが米中貿易戦争、それに「国の借金」など不安の種は多い。Img_3260

その一つ一つが大変な問題のように扱われるのだが、それもあまり悲観的に考える必要は無いと思う。

例えば、国の借金は一千兆円(一人あたり800万円)と聞けば、一体全体どうやって返すのかと思うのが普通だ。Img_3261

それは消費税を上げるのも一法だが、恐らく今回の10%への引き上げでも国債残高は減らないのではないか。

そもそもこれは「国」の借金ではなく、国民が金利の付く国債と引き換えに政府に貸した金だ。Img_3265

言うならば、債権者が政府と言うだけで国民の財産なのである。

政府がこれをチャラにしたかったら、日銀券(金利の付かない)を発行して交換すれば済むことである。

地球温暖化も最近の気候変動を思うと不安になるが、中国のPM2.5が収束しつつあるように、地球もそんなに柔ではない。

貿易戦争もはた迷惑な話だが、これだって歴史の一時的な通過点に過ぎない。Img_3267_1

要するに事大に騒がれている事どもも、案ずるより産むが易して、必ず解決の糸口に向かうのだ。

而して、大げさに心配など(大騒ぎ)することは無いのである。

これは、年寄りの達観(諦念)なんかでは決して無い。

 

 

 

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2019年5月28日 (火)

人生の錯覚

私達(私だけなのかなぁ~)は、残念ながら様々な錯覚の世界を生きている

例えば結婚だが、三国一(?)の才女と思って連れ添ったのだが、その現実は恐るべき錯覚でしかなかった。Img_3242

さっさと別れれば良かったのだが、離婚は罪悪と錯覚していたし、世間体にも大きく縛られた。

別れようとして中々別れられなくって混乱しているのが英国だが、そもそも大錯覚なのではないか。Img_3247

確かにEU域内では、人々は自由に移動できる訳で、カトリックのポーランド人が大勢やってきた。

イギリス国教徒の彼らとは、日常的な行動様式が確かに違ってはいたが、元々は同じゲルマンなのである。Img_3248

やがて中東の紛争が激しくなって、今度はシリアなどからの難民が大量に流入するようになった。

彼らの多くはイスラム教徒で、生活習慣は又更に違っていた。

それで英国の人達はEUは居心地が悪いと言い始め、EU離脱を決めたのだった。Img_3249

経済的にはEUに留まった方が圧倒的に得なのに、敢えて孤高を選択したのである。

案の定、実際の離脱は迷走を続けているが、生理的な生活感覚からの拒否感はかなり強い物がある。Img_3250_1

考えてみれば、イギリス国教だろうがイスラム、或いはカトリックにしても、たかが宗教だ。

私達の感覚からすれば、宗教なんて適当で良かろうと思うのだが、それが国を揺るがす重大事になっている。

私は全く宗教心のない人間だから、宗派の違いなどは錯覚の範囲だと思っていて、せいぜい何処で生まれたか程の違いしか無い。

私が細君と何処で出会ったのか、その程度の違いしか無いのである。Img_3251

仮に私が女性の多い職場に就職していたら、その中でもっと見目麗しい才媛を見つけることが出来たかも知れないのだ。

ともあれ、人生も国際情勢も、多少の違いはあれ、その多くは錯覚によって動いているのではないか。

 

 

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2019年5月27日 (月)

記憶の道

近頃(第二の人生)では、極めてスローな生き方をしている。

今日は、早朝からタマネギと馬鈴薯の収穫をした。Img_3276

鎌で上部を切って、更に土に深く広がっている根に鎌を入れ、一玉ずつ切り離していく。

馬鈴薯とて同様なことで、茎葉を除去してから、土の中の芋を探り出すのだ。Img_3277

極めてアナログで、とてものことスマート農業とは言えないが、まぁその大変な作業を楽しんでいる。

急遽畑の転換が必要になったのは、来月早々に保育園の子供達がサツマイモの蔓を挿すと言うからだ。Img_3245

ともあれ明日から雨だから、押っ取り刀で保育園の準備を済ませたのである。

しかしながら、昨日の登山とランの疲れは覿面で、足腰がギーギーと音を立てて軋んでいる。Img_3264

それは兎も角、昨日のランで驚いたことは、山住神社から水窪の町がこんなに離れていたのかって事だった。

かつてこの道は車で何度も行き来した事があって、ほんの二十分ほどの距離だと思っていた。Img_3244_1

それが12kの急な斜面が続いていて、私の知っていた道とは全く違っていた。

自分の足で辿るとはこう言うことかと、認識を新たにした訳だが、それは道ばかりではないだろう。Img_3268

人との付き合いや世間との関わり方、食べる物にしたって、かつてのスピードでは無くなっている。

何故って、第二の人生では遊ぶことも働く事も、人と会うことだって、それが大切な仕事だからだ。Img_3270

人間は人や物事との関わりの中でこそ生きられる訳だが、もはや努力(意識的)無しにはそれは得られない。

今私は、かつて走った道とはおよそ異なった道を歩んでいる。

 

 

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2019年5月26日 (日)

スーパーM

竜頭山に登ると聞いて参加したのだが、これはスーパーマゾの会だった。

竜頭山は北遠の山々を従える最高峰で、かねてから登ってみたいと思っていた山である。Img_3244

午前7時登山口の平和口に集合し、直ちに殆ど駆け足で急登していく。Img_3254 Img_3254

たちまちにして汗びっしょりになったが、登山道はよく手入れされた天竜美林の中に続いていて快適だった。Img_3256

一気に登り切って、山頂に着いたのは10時半過ぎ、奥美濃の山々は勿論、富士山までが見渡せた。Img_3259

そこからホウズキ平に下ると、鍔元さんがトラックで登ってきていて、美味しいエイドを提供してくださった。

生き返る思いがしたのだが、私達のスーパーマラニックは、未だ序の口に過ぎなかった。Img_3262

ホウズキ平の傍らにはスーパー林道が通じていて、その林道を10k余、山住神社まで一気にに駆け下りていく。Img_3266

住吉で一休みして、今度は水窪の町まで12k 、更に水窪から八丁坂を経て佐久間の西渡まで12kもある。

それでも途中、住吉神社をはじめ布滝や樹齢600年のトチノキを訪ねたりする余裕(?)があった。Img_3269

ともあれ最後はヨレヨレで、スタート地点の佐久間には4時半に辿り着くことが出来た。Img_3272

須く鍔元さんのサポートのお陰で、彼がいなければ給水さえままならなかっただろう。Img_3274

なにしろ山頂付近でも26度だったし、水窪に降りると30度を超えていた。Img_3275

やれやれとゴールした後、U嬢が悲鳴を上げた。・・・靴の中に山蛭が入ってタップリ吸われていたのである。

それはともかく、とても疲れはしたが一日タップリと北遠の自然の中を楽しませて頂いた。

 

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2019年5月25日 (土)

なお光在る

「ここにして 遙けくもあるか 夕くれて なお光ある 遠山の雪」(赤彦)

今日は久しぶり(レースで二ヶ月欠席)の人生を学ぶ勉強会で、テーマは「情熱」である。Img_3241

情熱は、目的に向かって突き進む意志の力とも言い換えられるだろうか、日々の行動のエネルギーでもある。Img_3239

この情熱なるものは、キュウリが最後にはウラナリしか成らせないように、人も歳と共に劣化するものだ。

私だって、かつては情熱の塊(大げさか?)だったが、その目指す物が少なくなると共に、次第にでくの坊化している。Img_3238

情熱をかき立てる燃料はまだまだ枯渇しないのだが、戦闘(挑むべき)対象とすべきものが消えていくのだ。

しかし、人間はその内なる情熱の枯れ果てた時、その歩みも自ずと止まるものだろう。Img_3237

冒頭に長野生まれの歌人、島木赤彦の歌を掲げたが、私はこの光を「情熱」に置き換えて詠んだ。

人間が生きているとは、何を感じているかであろうし、その感じ方が自分自身なのである。Img_3234

そして、夕暮れてなお情熱を維持し続ける秘訣は、ひたすら感謝しか無いだろう。

工藤房美著「「ありがとう」100万回の奇跡」を紹介頂いて、これはエネルギーかも知れないと思った。Img_3233

仮に10年に100万回としても、一日300回は「有り難う」を唱える勘定になる。

人間そんなに感謝ばかりしていられないだろうとも思うが、情熱も感情の一つなのである。Img_3232

それは自分に向かって有り難うだってあり得る訳で、その感謝の言葉が自分の遺伝子を活性化させる。

サムシンググレイト、眠っていた遺伝子がむっくりと起き上がって感動を、そして情熱と化すのだ。Img_3231

初参加のFさんが、「私は、有り難うランナーになろうと思っている」と仰っていた。Img_3230

翻って私は、これまで自分の惰弱な心と戦ってきたのだが・・・・そろそろ、転換点かも知れない。

今日は、「有り難う」によって何が生まれるかを考えさせられたのである。Img_3229

 

 

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2019年5月24日 (金)

私と小笠山

太田川の沖積平野(田んぼの真ん中)に生まれた私は、山と言う物を知らなかった。

それは遙か遠くに南アルプスや富士山が見えるにしても、身近な山は10kほど東に見える小笠山だった。

一度あの山に行ってみたいと思ったのが、多分小学三年生の頃だったと思う。

好奇心に駆られて自転車で冒険に出かけたその山は、荒れ果てた山だった(ガッカリ)と記憶している。Img_3226

当時は燃料が薪炭から石化燃料に変わった頃で、山は廃棄物も含め、荒廃のピークだった。

その後、当時の青年団協議会が小笠山の活用を呼びかけて、遊歩道などが整備された時期があった。

だがそれも経済の高度成長や青年団の衰退と共に忘れ去られ、今日の小笠山になっている。

とは言え、エコパ(運動公園)や道路整備が進み、国有林の多くも開放されて、茶園やみかん園に変わっている。

その山を走るようになったのは、平成の初め頃、偶然ある方に誘われたのがきっかけだった。

以来おおよそ30年、この丘陵(標高264m)と深く深く付き合ってきたのである。Img_3163

もともと(数十万年前)は大井川河口の三角州だったと言われ、その三角州の北側が大きく隆起して生まれた。

だから表面は河原と同じ石の山で、その深層部は泥岩になっている。

だから降った雨は一気に地下に染み込んで、地下ダムとなって南部の地域(大須賀、大東)に湧き出す。

山の謂われは兎も角、今ではその山の中で一日の半分近くを過ごしているのだから、故里のようなものだ。

ともあれ、今夜はその「小笠山を愛する協議会」の役員会があって、今後の運動方針について議論した。

この数年間だけでも森林管理署による「入山禁止」など色々とあったが、やっと本来の保健保安・自然観察教育に戻りつつある。

小笠山にお世話になっている私達も、精一杯この山の自然保全と活用に協力しようと言うことで一致した。

 

 

 

 

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2019年5月23日 (木)

面魂

面魂とは、広辞苑によると「並々ならぬ強い精神が顔に現れていること」とある。

元より軟弱な精神の私に面魂など宿るはずもなく、せめてそれなりの面構えが備わればと思ってきた。Img_3224

それは「男は、五十を過ぎたら自分の顔に責任を持て」などと言われて、日常が顔に出るとされていたからだ。

しかしどうも、(最近の研究では)顔の造りはDNAの成せる業らしく、あまり努力して変わる物でもないらしい。

それにしても、床屋に行く度に思うのが、「何と力の無い、弛んだ面構えか!」と言うことである。Img_3223

しかも、その顔の弛みには、私のこれまでオタオタと歩んできた事どもが皆織り込まれているような気もする。

「えぇ~い、顔などどうでも良いワイ」と開き直りつつ、これでも「怖い」と言われた時代もあったのだと納得させる。Img_3221

そう・・それは、その人間がどんな立場に在るかであって、そもそも顔など関係なかったのである。

顔が役立つと言えば、近頃の選挙で大抵は「イケメン候補」が当選することになっている。Img_3220

私のような貧乏顔や仁王さんのような厳い顔では、到底選良の気に入ってはもらえないのである。

政治も仕事も「顔」がする訳じゃないけど、どうせなら好きな顔をと選ぶのである。

詰まらぬ事を書いてしまったが、「先生」にも顔があるなぁ~と思ったからである。Img_3219

今日は地元中学校の学校運営委員会があって、まず最初にそれぞれの教室を回って授業参観した。

それは先生方は、それぞれのやり方で熱心にクラスを指導していた。

しかし、同じ事を言っても引き込まれてしまう先生と、そうでない先生もいるのは否めない。Img_3217

それは、信頼感の持てる面構えかどうかって事も一因では無いかと思うのだ。

そして、人の顔立ちを云々言える立場ではないが、面構えは立ち居振る舞いが醸す要素も多いのである。

 

 

 

 

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2019年5月22日 (水)

かつての景色

過去など振り返ったって、そこには唯思い出があるだけ、そう決め込んできた。

私の生きた時代がそうであったように、私も前だけを見つめて突き進んできたような気がする。Img_3196

自分に何が出来るか・・常に何かを達成することを目指してきた。

それは仕事であったり、スポーツだったり、家の事だったりもした。Img_3197

その他の諸々のことも含め、目標とした大抵のことを八割方は達成したと思っている。

やり残したこともあるにはあるが、それは人生をやり直すので無い限り不可能なことだ。Img_3199

そして今、自分のこれから目指すべきものは何かと考えても、かつてのような達成点は見いだせない。

地域への自分なりの貢献、より良いブドウを育てること、農園を闊達に面白くすること・・・程度だ。

これは自然体で出来ることで、殊更の目標でも何でも無かろう。Img_3202

ウルトラマラソンにしても、100kレースを年間7レースも走り続けてきた。

しかし、例え年に一レースにしたとしても、それを完遂するには相当の困難を覚悟しなければならない。Img_3205

かつて何の苦もなく出来たことが、今では容易に達成出来なくなっているのだ。

先日の八ヶ岳野辺山だって、60k通過が7時間20分だったから、10年前なら余裕の完走だっただろう。

だけどそこまでが精一杯で、結果として(死ぬ気で)完走を目指さなくて良かったと思っている。Img_3206

そしてむしろ、過去に十六回もこの難路を走り抜いたことを誇りに思うべきだと思った。

今回で23回目になる訳だから、雷雨の中を走り抜けたり、凍える寒さに耐えたり、無数の思い出がある。Img_3210

そして70歳を過ぎて、その思い出の道を71k辿っただけで、それはもう良しとすべきなのだ。

人は前を見て突き進むのも大切だが、時にはかつての景色を思い起こし、それを味わうのも良しとすべきだ。

 

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2019年5月21日 (火)

白州の森

腰の痛みに耐えかねて目が覚めると、外は強い風と雨であった。

その雨の中、やはり街頭に立ったのだが、遂に子供は一人も来なかった。Img_3211

学校が休みになった訳ではなく、親が車でみい~んな送っていったのである。

私は濡れそぼって子供達を待ったのだが・・・長靴に半分ほど水が溜まった頃、その重さに耐えかねて引き揚げた。Img_3212

レースから二日が経過したのに、やはり相当のダメージを残している。(完走していたら、更に重傷だったろう)

だが三日間も留守にしていたのだから、ブドウの管理作業は溜まっているし、ずっと動き続ける他ない。Img_3213

ところで野辺山からの帰り、今回は甲州街道を下って白州町のサントリーウイスキー博物館に寄ってきた。

八ヶ岳山麓の一角に八ヶ岳の花崗岩からしみ出す豊かな水を使って、ウイスキーやミネラルウオーターの工場がある。

この白州では水は無尽蔵の資源だし、それに新緑の自然林も美しくて、暫しの癒やしの時を過ごした。Img_3214

過度な運動をした後は、適宜のならしをしないと体が固まってしまうので、この程度の立ったり歩いたりは心地よいリハビリだ。

ウイスキー博物館なのに、見学したのは天然水の工場で・・・実は近年ではウイスキーは貴重になっている。Img_3215

ハイボールブームに加えて、日本ウイスキーの評価が高まって、慢性的な品薄だという。

ウイスキー工場に来てウイスキーが買えないのかと思ったが、何とか「白州」を一本ゲットした。Img_3216

ともあれ、広大な自然林の中にたたずむ蒸留所を訪れたなら、その味を知りたくなるのも自然というもの。

この白州の森には、そんな雰囲気が漂っていた。

 

 

 

 

 

 

 

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2019年5月20日 (月)

その時

人は生まれた時からドンドン歳を取っていき、幾つものその時(人生の転換点)を越えていくのである。

これが女性なら、次第に女の情念を失って身もだえするような歓びも苦悩もなくなっていく。Img_3185

化粧も次第に雑になって、やがて歯が悪い、目も耳もと増えていって、いつしか認知症予防に努めたりする。

しかし男の場合、何時からが「その時」なのかが分かり難いのである。Img_3186

排卵(精子のなくなるのは何時だろうか? )も恋心も無くなる訳ではないし、老化を自覚するのは難しい。

確かに脱毛はハゲるに任せるしかないし、抜けた歯は二度と生えてこないが、だからって全てが老化ではない。

私がショックだったのは、先年自分が古稀を迎えた時だった。Img_3189

まさか自分が、そんな歳になるとは思っていなかった(???)のである。

平均余命は十五年前後しかないなんて、それがまさか自分のことだなんて・・・それが理解出来なかった。

それで思わず駆け出したいような気持になったのだが、さて何処に行くのかって又戸惑ったのである。Img_3190

ところで、こんなことを書き出したのは、何時まで100kを走ることが出来るのだろうかと言うことである。

普通に考えれば人間の体は歳と共に衰えて、何時しかヨボヨボになっていく。

「そんなはずはなかろう」と思っても、現実にはスピードは出ないし、関門時間が迫ってくる。Img_3191

トレーニングの方法(筋トレなど)を変えたらどうかという意見もあるが、もっと肝心なのは「その時」なのではないか。

今私は、100kマラソンを通じて、自分の年齢に真正面から向き合おうとしている。Img_3195

果たしてこれは高い壁なのか、這い抜ける隘路があるのかどうか・・・ってな事を考えていた。

 

 

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2019年5月19日 (日)

天気晴朗なれど風強し

数日前の雨予報は一転、雲一つ無い晴天になった。

体調も良いし、何一つ不足なく、今日こそは完走をとスタート地点に立っていた。

この八ヶ岳山麓も昨年の台風でかなり痛めつけられていて、例年走る林道が使えない。Img_3192

例年のコースは最高地点で2100m程まで登るのだが、土砂崩れで通行できないため大きく迂回するコースとなった。

結果として高い地点まで登らなくて良くなったが、その分山麓の大小のアップダウンを繰り返すことになった。Img_3198

楽なコースになったとの観測は見事に裏切られたのである。

それでも50k地点を6時間15分でクリアーし、後半への貯金を45分残していた。

計算上は完走できる位置に居た訳である。Img_3200

しかし実際には、62,7kを過ぎた辺りから変調を来した。

それは心の変調で、若々しい人達の筋力が羨ましくなったのである。

後ろから追いついてきて、私をドンドン追い抜いていく。

残念ながらかつてのように抜き返す力が無いのである。

何も、死ぬほどの思いをして完走することもないな・・・などと思い始めている。

それに65kから70kは、かなりきつい上り坂が続いていた。

更にその先には、難攻不落で知られる馬越峠が待って居てるのである。Img_3201

気持が萎えてしまうと、体中のあちこちが悲鳴を上げはじめていた。

いやさ、それは暑いとか寒いとか、足が痛いとか、靴が硬いとか・・・みんな言い訳なのである。

結局は惰弱な心に由来していて、「もう、十分走ったよ。良いじゃないか、完走できなくたって」が効いた。

71kのゴールが、今日の私の最終地点となった。勿論メダルはなしである。

 

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2019年5月18日 (土)

八ヶ岳の春

今年も、明日の野辺山100kマラソンのために、八ヶ岳山麓の松原湖に来ている。

流石に標高の高いこの地域の春は遅く、この時期になって一斉に春を主張しているかのようだ。

松原湖の周りを歩けば、カラマツの新緑に加え、カキツバタやチュウリップなどが一斉に咲いて、八ヶ岳に彩りを添えている。Img_3176

もう24年、毎年この時期にここにやってきているのだから、その年数分だけの思い出がある。

いや、ただ単にこの地を訪れたと言うのではなく、言うまでも無く一年に一度の大勝負に来ているのだ。

汗は勿論のこと、涙や苦痛、感激や感動、たかだか14時間のドラマに過ぎないが、それぞれ切実な記憶を残している。

そしてその記憶は、何時の間にか私にとって次第に質が深化し、今日まで積み重なってきている。

今年もここに来て、この四半世紀を思い起こしつつ、そんな感慨を深くしている。Img_3177

そう・・振り返れば、私が48才の時、初めてのこの100kマラソンに挑戦した。

だがその時には、「父危篤、直ぐ帰れ」の報が宿に届いて、急遽夜を徹して帰宅したのだった。

あれから、何と24年もの歳月が流れたのである。Img_3182

かつては若さに任せて、100kなど何のそのと走ることが出来たが、今では経験だけが頼りの苦闘のレースだ。

果たして完走できるものかどうか、(出来る準備は全てしたから)後は自分の気持との闘いである。

その勝負のレースを前にして、今は心静かである。

 

 

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2019年5月17日 (金)

夜は異なもの

子供の頃の夜は今よりずっと暗かったし、寝てしまわなければ怖かった。

子供というのは不思議な物で、寝る子は育つの道理で、眠れないなんて事は(記憶に)無かった。Img_2120

それが三十歳半ばだったか、突然来る日も来る日も眠れなくなったことがある。

ウトウトしたかと思うと汗をびっしょりかいて目が覚め、今度は何事かをグルグルと考えていた。Img_2126

胴回りにはブツブツと赤い斑点が現れて(ヘルペス)、風呂に入るととても痛かった記憶がある。

それは半月ほども続いた(今考えると、鬱病だった)のだが、それでもちゃんと生きていた。

元来私の睡眠時間は短い方で、大抵が7時間前後で、ぐっすりと眠るバターンだった。Img_2128

一日タップリ活動して、(夜が待ち遠しく)バタンキューって感じで、(春眠暁を覚えずで)ほとんど夜を意識したことがなかった。

しかし寄る年波の故か、夜の到来が些か苦痛になり始めている。Img_2131

近年では(やることがないから)俄然就寝時間が早くなって、9時過ぎにはベットに入ることが多くなった。

すると必ず小便のために起きなければならないし、それに夜長になって何本も夢を見る。

それは麗しく甘味な夢なら大歓迎だが、支離滅裂で脈絡のない夢ばかりなのである。Img_2132

しからば起きていようとTVなどを観てもおよそ詰まらない、「しょうが無い、寝るか!」ってことになる。

丑三つ時(二時頃)目が覚めると、階下では未だ電気がついていたりして、何だか昔(子供の頃)の濃い夜が懐かしくなる。

だが起き出すわけにも行かず寝ようとするが、今度は眠れぬ夜が待っているのである。Img_2134

昔なら、仕事のことやら将来のこと、或いは出来もせぬ夢など考えたのだが、昨今では思案するテーマがない。

而して支離滅裂な夢を見るという次第なのである。

こうやって私もだんだん年寄りになるのかなぁ~と思いつつ、若き日々の深々とした眠りを懐かしく思っている。

 

 

 

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2019年5月16日 (木)

人生五十年?

かつて(つい最近まで)人生五十年と言われた。

それが俄に人生100年時代と言うんだから、制度(年金)も心の準備もついていかないのが当然だ。Img_2113

現実に70歳の平均余命をみても、男15.6年女19.9年となっていて、

その余命も一年に0.4年ずつ伸びていて、10年先には4年伸びる勘定で、更に遺伝子治療や臓器移植と際限もない。Img_2114

或いは私の生きている内に、平均余命100歳が実現してしまうのではないかとも思う。

それはさておき、人間は50歳で一端死んだと思うべきではないかと考えている。

動物的に考えれば、二十歳で子供を作って育て、独り立ちするのがその頃で、Img_2115 Img_2115

だから女なら50歳で閉経するし、男だって筋力は激減する。

生き物としての役割は、五十歳までに大抵は終わってしまうのである。

それが昔の様にさっさと死ねば良い物を、役割を終えてもなお50年は生きろと言う時代なんだ。Img_2117

当然ながら、生きる目的だって変わってくるし、これまでの人類史上無かった「人生哲学」が必要になる。

孫やひ孫の面倒を見るのも歓びかも知れないが、果たして人間それで満足し得るのかどうか。

人生後半の五十年は、前半よりも遙かに長い。Img_2118

これは五十歳から新しい人生が始まると考えた方が、分かりが良いのではないかと思う。

現実に私の50歳以降の考え方も随分変わったし、五十歳から新たな青春が始まったのかも知れない。

そうして現在70歳と少し、(決してヨボヨボの爺さんではなく)人生を謳歌している真っ最中なのである。Img_2124

前半の50年の私と現在の私とではまるで違うし、自由奔放に生きているような気がする。

人生100年時代は、50年の(異なった)人生を二度経験することなのかも知れない。

 

 

 

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2019年5月15日 (水)

我意

育ちなのか性分なのか、人はそれぞれに個性を持っていて、その表現形もまちまちだ。

重みのあるひとかどの人物がいるかと思えば、中身のない空鉄砲のような人、遙として得体の知れない人。Img_3024_1

振り返ってみれば、随分様々な人と出会って、その中で揉まれて生きてきたのである。

私はと言えば、人の話を聞く事の方が多く、それで結果として多くを得てきた。

元来が内気だから、自己主張なんて出来る訳もなく、大抵はおとなしい人で通ってきた。Img_3025_1

それでも内面にはいつも秘めた気持があって、「頑張れ、頑張れ」と自分を励ましてきた。

本当のところは、何をどう頑張れば良いのか定かでなかったが「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」ってな気分だったな。Img_3050_1

そうやって70年以上も生きてくると、「まぁ~、これで良かったんじゃない」って思う。

世間には相変わらず虚勢を張って生きている人も居るけれど、無理することないよねぇと同情している。Img_3065_1

ところで「頑張る」とは、「我を張る」が転じた表現で、元々は「我意を張り通す」ほどの意味らしい。

私はいつも「正しいことを言う時には、控えめに」を鉄則にしているから、それは頑張ってこなかったことになる。Img_3072

我を張って生きてこなかった分個性(面白み)に欠けるのかも知れないが、そもそも「我」は相手あってのものだねだ。

ってな訳で、細君にも平身低頭、我意を殺して仕えている。

 

 

 

 

 

 

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2019年5月14日 (火)

老兵は死なず

戦後の日本統治を経て、マッカーサーがこの国を 去ったのは何歳の時だったのか? 

戦時日Img_3090本の民主化に向けてやるだけのことをやったという自負と、Img_3090

「ただ消えゆくのみ」には、「まだまだ自分はこれから」って思いが伝わる。

私も古稀を越えて暫くなるが、一向にその老いなる物を感じないのである。Img_3094

楽隠居にならないのは、それほど心身の衰えが自覚されないからだろうか。

考えてみれば、近世の「食」の向上は目覚ましく、かてて加えて医療や知覚(メディアやネット)、それに文明の機器が凄い。

歳を取ったからって、縁側で日向ぼっこなんてしてられない。Img_3136

ラインにゃ返信しなきゃならないし、行きたい所や食べたいものがドンドン増えていく。

人生100年時代なんて言うけど、この調子じゃ私も90位までは生きそうな気がしている。

そう・・・老兵は中々死ねないのである。

この週末には、24回目になる八ヶ岳野辺山100kマラソンに挑戦する。

この日本一過酷とされる100kマラソンに挑んで24年目、流石に関門突破が年々大変になってきた。Img_3142

だが、老骨に鞭打って、100kを何とか走り抜こうと思っている。

今日の雨で一日休養となったが、明日はレース前最後の練習で山を15k 走る。

100kレースは容易ではないが、「老兵は死なず」を実証してきたいと深く思っている。

 

 

 

 

 

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2019年5月13日 (月)

サンディー毎日

サンデー毎日という週刊誌があったが、私の場合は毎日がサンディー(日曜)と言う意味である。

最近になってやっと、65歳或いは70歳までの雇用が現実になってきたが、Img_3077

私の定年退職は民主党政権下で、定年延長は若者の雇用機会を無くすなどと議論されていた頃だ。

あれからもう十年余が過ぎて、その後の諸々からも全くの自由の身になって数年がたつ。Img_3078

従って無位無冠・無職にして無為な(?)毎日を送っている。

否、必ずしも無為という訳ではないが、世の中の同輩諸氏は如何な毎日を送っておられるのかと気になっている。Img_3079

多くの場合定年退職すると「終わった人」になってしまうと言う。

それで定年退職後、晩年ハウツウ本を何冊も読んだが、みんな好い加減で、納得いく書物は一冊もなかった。

つまり人によって置かれた状況は千差万別、誰も答えなど出しようがないのである。Img_3085

それでも夜が明けると次の日が来て、さて何をするべきかと思案している人が何と多いことか。

・・ってことで、何となく日暮らし歳を取って死んでいくというパターンにはまっていくのだ。

そもそも、人間は(定年など関係なく)働けるだけ働けば良いのである。Img_3089

その分休暇などは取りたいだけ取って、余暇を充実させるし、全体として一生を楽しめば良い。

70歳なんてまだまだ若いのが現実で、私などもこうしてフリーで過ごすのが申し訳ない気がしている。

サンディー毎日は有り難いような、有り難くないような、何ともやるせないこの頃だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年5月12日 (日)

安らぎの時

私の安らぎは、どうやら土と関わっている時にあるらしい。

常日頃セカセカと歩き回っているか、何かしていないと気が済まない性分だ。Img_3095

始終何とか大会に出かけているし、それはそれで非日常を楽しんでいる。Img_3096

だが普段は半日はランニングだが、残りの多くは作物と関わって楽しんでいる。

昨日から今日に掛けては小梅を収穫し、梅干し用に漬け込んだ。Img_3102

例年収穫せずに放置することが多いのだが、今年は「うん、やってみようか」と粗塩に浸けた。

可愛いラディッシュ(赤株)を作って、愛でながら食べている。(あの健気な程の赤さが愛らしい)Img_3104

毎朝キュウリを収穫していて、食べきれないから糠漬けにして楽しんでいる。

今日はオクラを100本ばかり定植した。(かつては500本も作ったのだが、厭地のため減らしている。)Img_3113

ゴボウに人参・大根、インゲンもすくすくと育っていて、たまねぎと馬鈴薯は来月に入って収穫だ。

そのタマネギの後には、保育園の子供達のためのサツマイモを植えなければならない。Img_3114

あぁ~それに楽しみなのはスイカで、大玉スイカに小玉スイカを育てている。

今年のブドウは出来が悪いが、この時期はジベレリン処理の真っ最中である。

この時期から一ヶ月ほどの枝の管理が、来年の出来如何に直結するのだ。Img_3124

ともあれ極早生のデラウエアは、もう一ヶ月もすれば収穫期を迎えるのである。

畑に追われているのか追いかけているのか分からないが、いずれにしても私の菜園は癒やしの場である。

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2019年5月11日 (土)

自画像

岡崎城を訪ねた折、天下人になった家康の像が幾つかあったが、それよりも三方原敗戦後の肖像が印象的だった。

家康はこの敗戦を忘れないために、苦虫をかみつぶしたような変な肖像を大切にしたと伝わる。Img_3143

功なり名を挙げた人物は、とうに自分の惨めな姿を忘れ去っているものだ。Img_3146

やはり家康は、人並み外れた才気の持ち主だったのだろう。

人は誰もが、何時の間にか理想の自分像を心に懐くようになる。Img_3147

かくありたいとか、そうあるべきとか・・・兎に角色々な要素を含めて、納得いく自分の像をイメージする。

実際にはビール腹になってたり、顔だってデレーっと垂れ下がっていたとしてもだ。Img_3149

化粧やお洒落はもとより、ダイエットが流行っているが、理想の自分でありたいという気持が強いからだ。

実はこの私にも、心の中にはかなり精悍で利口な顔をした自画像がぼんやりとだが在る。Img_3151

実際にはハゲちゃびてシワシワのジジイだが、どこかに理想の自分のイメージがあるから生きられる。

保育園の子供達がやってきて「お爺さん、今日は」と言ったが、私は返事をしなかった。Img_3152

「お兄さん、今日は」に訂正させて、やっとニコリと笑って彼らの相手をした。

以来彼らは私の前では「お爺さん」などとは決して言わない、人間なんて誰でもそんなもんでしょ。Img_3154

私の「遺影」は已に準備してあるが、これも私のイメージする自画像とはかなり違う。

写真屋にあれこれ注文して直させたのだが、どうも頼んだ写真屋の腕が悪かった(?)。Img_3157

それにしても、私は今日一日どんな顔をして過ごしただろうか。

Today is first  day of the rest of your life.と思って生きているのだが。

 

 

 

 

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2019年5月10日 (金)

薫風と共に

今この頃が、一年で最も心地よく過ごせる季節ではなかろうか。

早朝の一時(朝飯前)、緑茂るブドウ棚の下に入って、蔓の誘引と種無しにするための作業をする。Img_3155

朝食と立哨を済ませてから山に向かい、新緑が折り重なるようにトンネルを作っている緑道を走る。

この時期の緑は明るく輝いていて、自ずと気持を軽やかにしてくれる。Img_3156

午後はいつものように農作業で、今日は堆肥をタップリと入れたオクラの植床を作った。

緑の増えた畑には害虫もやってきて、今日一日だけで十数頭のウリハムシを捕殺した。Img_3158

彼らはもっぱらウリ類の葉を食べるのだが、満腹時には大根葉の緑の中に隠れている。

その彼らの習性を知ってから、効率よく羽虫の数を減らせるようになった。Img_3159

ともあれ、新たな緑は自然界の諸々を勢いづかせてくれるのである。Img_3161

宋の詩人欧陽修の七言絶句「豊楽亭遊春」には、次のように歌われている。

 緑樹交加山鳥啼(緑樹 交ごも加わる 山鳥の啼)

 晴風蕩漾落花飛(晴風 蕩ようして 落花 飛ぶ)

 鳥歌花舞太守酔(鳥歌い 花舞いて 太守 酔う)

 明日酒醒春已帰(明日 酒醒むれば 春 已に帰らん)Img_3164

「緑樹が鮮やかに重なって、山鳥が啼く。爽やかな風に花落ち水緩む。その中で私は酔うてござる。

だが明日、酔いが醒めれば、春はもう去っているのかも知れない。」Img_3165

・・・そう、私も春に酔ってばかりでは居られないのである。

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2019年5月 9日 (木)

男川

何故かそんな題で書き出そうとしているのだが、男川は矢作川の支流で岡崎城の外堀でもある。

乙川とも呼ばれて、源流は本宮山かと思われる。Img_3105

私達が長篠に向かって走った折、右側に切れ込み深く流れていたのがその川だ。

長篠城もそうだがこの三河の川は削られやすい岩質なのか、川が深く切れ込んでいる。Img_3106

その川のお陰で、長篠城は長期間の籠城にも耐えることが出来たのだろう。

ともあれ、一気に急流を駆け下るのが男川だろうし、その逆が女川と表現されるのだろう。Img_3109

私も人並みにその急流を下ってきて、今はとうとうと流れる緩やかな流れに入っているのだろう。

確かに岩を削るほどの流れもあったし、辿ってきた道程は語ろうとしても詮無いほどだ。Img_3110

紆余曲折、時には妥協に継ぐ妥協、苦しいことも楽しいことも、みい~んな過去のことになった。

そして、御年70を過ぎて、現在の自分自身を眺めてみている。Img_3111

さして老成したとも思えないし、今からだって青春を謳歌できそうな気もする。

ウルトラを走る体力だって維持しているし、気持だって若いんだからね。Img_3118

だけど時はどんどん過ぎていって、「オイオイ、待てよ!」と言っても、振り返りもしないんだ。

今日は山を走って、早生タマネギを収穫し、ゴボウを蒔いただけで一日が終わりそうだ。Img_3122

そう・・・・、次第に緩やかな流れに身を任せるようになっているのだ。

男川、私もかつて急流を下ってきたのだと言い聞かせている。

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2019年5月 8日 (水)

味噌の思い出

岡崎の八丁味噌資料館を訪れた。

酒に味噌・醤油、それに納豆や沢庵は古くからの代表的農産加工品だ。Img_3091

岡崎の八丁一帯は味噌造りが盛んだったらしく、江戸期以来の味噌蔵が何軒か残っている。Img_3092

そのうちのカクキューを訪れたのだが、酒蔵ならいざ知らず、その味噌蔵に大勢が詰めかけていた。

味噌ソフトを食べながらガイドツアーを待ち、いよいよ資料館へと入っていく。Img_3093

資料館は明治40年の建物らしく、その頑丈な建物の中に仕込み作業や桶などが陳列されている。

ここの味噌は赤味噌で二夏二冬寝かせるらしいが、味噌は大豆と塩・麹で造ることに変わりない。Img_3097

それで、私も味噌を造ったなぁ~と記憶が甦ってきた。

八丁味噌は大豆を蒸して造るから赤味噌になるが、私の家では大豆を風呂釜で茹でて白味噌にした。Img_3098

私が小学3~4年生位までだったろうか、味噌造りは初冬の年中行事だった。

風呂桶に一晩大豆を浸けて、私が藁や焚き木を燃して茹でる。Img_3099

その茹だった豆を臼に入れ、塩と麹をませて杵でポッテンポッテンつくのである。

釜屋の隅に四斗桶が三つほどあって、それが一杯になるまで半日がかりであった。Img_3100

それが一年間の一家の(手前)味噌であり、貴重なタンパク源でもあった。Img_3101

それはビニールなどの無かった時代だから、油紙や新聞紙で密封したのだが、上部の5cm位はいつも腐っていた。

農家の食料は基本的に自給自足だった訳で、(それでなきゃ生きられなかった)一方町場では商品経済が進んでいた。

江戸の昔から、味噌は立派な流通商品だったのである。Img_3103

味噌汁、そう毎朝女房の味噌スープを飲む度に、生き返ったような気分になるのは私だけだろうか。

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2019年5月 7日 (火)

出生の地(岡崎城)

岡崎と言う所に、何故かこれまで縁が薄かった。

今回岡崎城を訪ねて、改めて三河の広大さ(農業的豊かさ)に気が付いたような気がする。Img_3080

言うまでも無く岡崎城は、天下人となった家康の出生の地である。Img_3081

とは言え、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、岡崎城に帰ったのは桶狭間戦の後(19歳)だ。

彼はこの岡崎城を拠点に次第に地歩を固めるのだが、在城は10年で、戦略上本拠を浜松に移している。Img_3082

しかし出生の地への思いからか、全国を掌握した後も譜代の重臣(石川数正、本多氏、水野氏ら)を城主とした。

石高は5万石に過ぎなかったが、家臣にとって岡崎城主になることは誇りだったようだ。Img_3083

ともあれ最後の城主本多忠直は、明治(廃藩置県で)になって初代市長を務めている。

そして現在、昭和34年にほぼ昔通りに復元された天守閣が聳えている。Img_3084

波瀾万丈を経て天下を取った人間にとって、出生の地がどの程度貴重なのかは分からない。

しかし貧乏百姓生まれの私だって、やはり自分の生まれた所には多少の思い入れはある。Img_3086

もっともそれは、望むらくは将来とも廃墟にならないようにと祈念する程度に過ぎないが。

それはともかく、長篠の闘い前夜、家康はこの岡崎城で対武田戦に備えていた訳だが、Img_3087

武田との間合い(距離)は、たったの(私達が8時間掛けて走った)70kほどに過ぎなかったのである。Img_3088

何だか、歴史がImg_3082 手の平の上に乗ったかのような気分になった。

 

 

 

 

 

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2019年5月 6日 (月)

岩屋観音

二川宿近くの東海道を見下ろす高台に、立派な観音像が東を向いて立っている。

起源は極めて古く、730年に行基菩薩が仏像を彫って洞に納めたのが始まりと伝わる。Img_3133

以来千三百年近く、東海道を行き来する人々の守り神として、崇められてきたという。Img_3134

その岩屋観音公園で(Kさん呼びかけの)仲間の集いに参加してきた。

テーマは天ぷらで、それぞれが持ち寄った具材を天ぷらに揚げて頂きながら楽しむのである。Img_3135

広い公園内には孟宗竹の筍も沢山顔を出していて、これも大変美味しい(絶品の)具材だ。

それにコシアブラやタラの芽、こんにゃくなども加わって、随分と楽しい一時を過ごした。Img_3145

人間不思議なもので、なじみの顔の中にいると、まったりとした安心感が漂う。Img_3148

自分も仲間として認められているって言う、その安心感と言っても良いだろう。Img_3150

特に何を話したって訳でもないが、それぞれが代わる代わる話題を提供していて、それが尽きない。

全て片付けを終えて最後に、観音様の足元にまで登った。Img_3153

登ってみれば、これは街道を見下ろして流石に高く、江戸の昔からの旅人の気持が想像される。

而して10連休最後の一日を、観音様の下で楽しんだのである。Img_3166

みなさん、有り難う。

 

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2019年5月 5日 (日)

強右衛門になりきって

今日は、長篠城址祭りに併せた「戦国街道ラン」である。

鳥居強右衛門は勝頼に包囲されていた長篠城を夜陰に紛れて抜け出し、岡崎城まで70k近くを走った。Img_3107

岡崎で家康から直ちに救援の兵を送るとの回答を得、同じ道を長篠城まで取って返すのである。

彼は城近くで勝頼の軍勢に捕縛され、城兵の見守る中で磔にされたのは、周知の事実だ。Img_3108

ともあれ私達は、今朝五時半に岡崎城の正門前をスタート、一路長篠に向かって北上した。

途中、くらがり渓谷から本宮山頂近く(今日の中間地点)まで登るのだが、これが一苦労。Img_3112

本宮山からは作手に下り、新城の豊栄から新城総合公園に全員集合。Img_3116

ここから3kは隊列を組んで走り、長篠城へと入城する。

城内は祭りの見物客(火縄銃や弓矢の実演)で溢れていたが、広場中央は私達鳥居強右衛門隊のために明けられていた。Img_3117

長篠城主に扮する穂積市長が登場し、私達は家康から託された口上を伝令するのである。

その伝令役が、何と私であった。Img_3119

口上は「・・前略・・城内の皆の衆!喜んでくだされ!勝ち戦でござるぞ!織田・徳川連合軍三万六千Img_3128

明日には設楽原に布陣致し候。今しばらくの辛抱でござる。城をお守りくだされ。さすれば、必ずや勝ち戦でござるぞ。

城内の皆の衆、共に勝ち鬨を挙げましょうぞ!イザ、エイエイオー・エイエイオー・エイエイオー」と大音声を挙げたのである。

Img_3131

そんな次第で、広場を取り囲む観衆と共に、心地よく今日の戦国ラン65kを終えたのであった。

 

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2019年5月 4日 (土)

長篠の闘い前夜

今日は、1575年の信玄亡き後、京に登らんとした勝頼の話である。

この年、勝頼は信長方の長篠城(奥平貞昌)を一万五千の軍勢で囲んでいた。Img_3021

長篠城は深い川の彫り込みに囲まれた要害の城で、城兵500に過ぎないのに容易に落ちない。

しかし、兵糧は尽きて日に日に疲弊し、落城は時間の問題と言うところまで来ていた。Img_3022

「何とか、救援を・・」と必死の使者を買って出たのが鳥居強右衛門だった。

彼は夜陰紛れ堀を潜って武田の囲みをすり抜けて、65k離れた徳川家康の岡崎城まで走った。Img_3023

「もう、草木も食べ尽くし、食べる物とて無く、落城は必死、何とか救援を・・」と縋ったのだ。

信長と腹を合わせ(馬防柵など)準備を重ねていた家康は、「合点、直ちに駆け付ける」と約束する。Img_3024

そこまてで強右衛門の役割は終わっても良かったのだが、彼は仲間のために再び65Kを走って駆け戻る。

ひもじく死にかけている仲間を、何としても元気づけたかったのだろう。Img_3025

当然ながら、武田の検問で捕らえられ、「援軍は来ない」と言えと十字架にくくりつけられる。

しかし強右衛門は、待っていたとばかりに大音声で「今すぐ、4万の大軍が助けに来るぞー」と叫ぶ。

その刹那、強右衛門は殺されてしまうのだが、その時信長は切楽原に三重の馬防柵と三千丁の鉄砲を準備していた。

それに気付いた勝頼は、長篠城の囲みを解いて設楽が原へと展開し、やがて運命の突撃を命じるのだ。Img_3026

千棟は時間続いたと言うが、武田の主だった武将は次々に討ち死にし、勝頼は這々の体で逃げ帰る。

それが、戦国の戦を変えたと言われる長篠の闘いだ。

さて、明日はその長篠の闘いを再現する長篠祭りである。

それで明日私は、家康のいた岡崎城から長篠までの65Kを走ろうとしている。

戦国の強右衛門は、この65Kを必死で往復したのだから、私にも出来ないはずはなかろうて。

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2019年5月 3日 (金)

くったくたぁ~の一日

連休消化のために、何年かぶりに孫達を連れて遠出をした。Img_3045

  • 朝7時東に向かって走ったのだが、金谷から新東名に入ると間もなく渋滞しはじめた。Img_3028 Img_3028Img_3038

その渋滞が富士ICまでずうぅ~っと続いて、目的地のサファリパークに着いたのは、もす12時近くだった。

そしてそのサファリだがこれも満員で、場内を車でのろのろと約一時間半、正に渋滞の延長で、Img_3031

進むことも反転して退くことも出来ない窮屈さを味わった。

さても腹が減って昼食の段になったが、これもチケットを買うのに30分待ちの状態。Img_3030

コストパフォーマンスの低い食事を済ませて、今度は富士世界遺産センターに向かった。

ところがセンターの近くをグルグル回ってもPは全て満車、それに市中の渋滞に辟易。Img_3029

遂にあきらめて、今度は駿河健康ランドに寄って疲れを癒やすことにした。Img_3028

それで帰りは何と8時半を回っていた。

確かにライオンもヒョウも観たのだが、彼らだってくたびれ果てていた。

うぅ~ん、連休には出かけるもんじゃないなぁ~。Img_3027

それでも、久しぶりの孫達との一日は、とっても楽しかったということにしておこう。

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2019年5月 2日 (木)

樹勢

毎年、「今年こそは、完璧にブドウを育てたい」と意気込んで取り組んでいる。

だけど、生育のステージが進むに従って、これが駄目・アレが駄目と諦めが多くなってくる。Img_3034

天候であったり、剪定の具合だったり、更には前年の管理(日照)によって、それは大きく異なってくる。

そして今年の生育だが、芽の揃いや生育にムラがあって、極めて出来が悪くなっている。Img_3032

その理由を考えているのだが、昨年の(砂漠に行っていて)手抜きと樹の高齢化ではないかと考えている。Img_3033

ブドウ栽培を初めて20年近くになるから、少しずつ改植しているとは言え、ブドウ樹は年々古樹になっていく。

品種や樹齢によって個体差があるが、歳を取った樹と育ち盛りとでは、自ずと樹の勢いが違う。Img_3035

老木は老木なりに労ってやらないと、こちらの思う通りには花を咲かせないのである。Img_3036

特に今年の場合、三月の寒暖差が大きく、このために未だに芽を出さない枝すら散見されるのだ。

高齢の故に、未だ寝ぼけているのである。Img_3037

時折「この老木め!」と幹をぶっ叩くのだが、一向に知らん顔である。

幹にのこぎりを入れる「環状剥皮」などの荒技もあるのだが、可哀想で止めている。Img_3038

と言うのも、ブドウの樹とて人間と同じ様に感情があって、「ふん、碌な管理もせずに働けってのか?」って声が聞こえるからだ。

「まぁ良いさ今年は、来年こそは頑張るしさぁ~」って、自らを鼓舞している。Img_3039

而して年々歳々、何時かきっと老木の素晴らしいパフォーマンスを見せてやりたいものである。

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2019年5月 1日 (水)

老い心地

現役を退いて歳を重ねると言うことは、考えたり語ったりする範囲を狭めることに繋がる。

あれこれ悩んだり考えたりする必要がなくなるって事だ。Img_3040

私も最近とみに物忘れするようになって、記憶しているはずの人の名前や過去の出来事などが出てこない。

つい先日は、毎日飲んでいる「プロテイン」が出てこなくって、「あの・・大豆タンパクの・・」などと言っていた。Img_3041

話をしていて、突然人の名前が思い出せなくなったり、物事の前後関係があやふやになったり・・。

そんな時、「我、老いたるや!!」と密かに思うのだが、それをジッと飲み込んでいる。Img_3042

考えてみると、人と話をすることも少なくなって、使う言葉だってドンドン減っている。

そもそも、一日24時間一人で過ごすことが多く、ほとんど喋べっちゃいないのである。Img_3044

使わない脳細胞が錆び付くのは当然のことであって、人はこうやって徐々に老いていくのかも知れない。

女性が男より長生きするのは、良く喋って手足を動かすからじゃないかなぁ。Img_3045

・・ってことは、長生きしたかったから社交的になって、あっちこっちに出かけるに如かずである。

ところで今日からの改元で、昭和・平成・令和を生きることになった。Img_3063

新しい時代が麗しい月日になるよう、国中(この村でも屋台が出て)お祝いしている。

さても、この令和の時代を如何に生きるかが、私に課された最後の命題(ミッション)である。Img_3068

呆けも程ほどに適度に老いて、それでも生臭く生きてやろうと思っている。

 

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