蝉しぐれの盆
旧盆の頃は、蝉しぐれの時期と重なる。
生の終わりを急き立てるかのように蝉の鳴き声が降ってくる頃だ。
盆は、先祖の供養の行事だが、遠州地方には独特の大念仏がある。
20人ほどの若者が太湖を打ち鳴らしながら踊り続ける。
単調な歌と踊りが続くのだが、それを聞くうちに供養とは何か分かるような気がしてくる。
念仏は「高き山 高きススキを刈り分けて 親のお墓へ花立に行く
花立てもどる姿を見てやれば 袖は涙に裾はつゆつゆ・・・」と唱和している。
今日、旧豊岡村で行われた大念仏を鑑賞しながら、
「悠久と経年」と言うことを考えていた。
人はどんどん馬齢を食んでいく。
見方によれば加齢は若さを失うことであり、或いはかつての能力すらも失っていく。
だが年齢を重ねるということは、経験と知恵、更には人脈が増えていく過程なのだ。
つまり失うものと引き換えに、実は多くの財産を蓄えることでもある。
仮に恍惚の人となったとしても、そのことはどこかに残されるものなのだ。
遠州大念仏は400年前から少しも変わらずに続いている。
若きが老いを受け継ぎ、そうして今も70組がその流れを引き継いでいる。
たかが念仏だが、これは一個の人間が生涯を全うする総和なのだろう。
一個の個体は、生まれて成人して老いて滅びていく。
しかし形にならなくても確実に生きた証の片鱗を残していくのも事実だ。
遠州の念仏は、「人が生きるってことは・・・そうだぜっ」て語りかけてくるようだった。
流れゆくものの中に、微動だにしない何かがあるのだ。
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