歴史

2015年1月 8日 (木)

分水嶺の平成元年

平成も既に27年を迎えているのも一つの感慨だが、

改めて振り返るとこの元年は大変な節目だったようだ。

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消費税が導入されたのもこの年だし、世界の冷戦終結も元年だ。

日経平均が今では信じられないが、3万9千円の最高値を記録していた。

今になってつらつら思うと、あの1989年はこの国の分水嶺だったのだ。

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それは翌平成2年のバブル崩壊で一層はっきりし、この国は一気に下降線をl辿り始めた。

言うまでもなく、失われた20年に突入していくのである。

今では人口減少が当たり前になっているれど、その予兆が言われ始めたのも同時期だ。

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因みに、静岡県の高校入学者数のピークが平成元年の56,727人なんだ。

それが、平成25年には何と42%減の32,838人になっている。

更に平成45年には六割近く減少して23,723人になると予測されているのだ。

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平成元年前後から少子化が極めて顕著になったと言うか、結婚すらしなくなってしまった。

この国の経済成長が止まって低成長になったが、まだまだ十分な豊かさを持っている。

しかるに人間の方が過敏になって、経済成長にもブレーキをかけるようになっている。

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子供が少なくなったのは賃金が下がったからではなく、本当は結婚しないからだ。

低賃金で結婚できないなんてのは嘘で、結婚が怖い世代が増えちゃったんだ。

昔は、一人では生活できなくっても二人なら生活できるって言われたが、

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今じゃ社会保障で一人でも生活出来るようになったのが大きい。

ともあれ結婚できない若者の激増は困ったもので、生殖は生き物の本来の使命だ。

それに生き物は、生殖しないとその寿命も短くなるのだそうだ。

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国の人口問題研究所の調べによると、

既婚男性より未婚男性の平均余命は9年も短いんだそうだ。

40歳の未婚男性の平均余命は30.42年、対して既婚男性9.06年なんだとか。

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結婚によって生存条件が改善される面もあるが、生甲斐がまるで違うだろう。

所詮人間は一人では生きられないんだ。

それに雄雌を知ることなく生きたして、人生の面白いドラマは生まれないと思うのだ。

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余談になったが、そんな具合で平成元年は私達にとっても大変な分水嶺だったのだ。

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2014年12月 3日 (水)

時代と人

上野の不忍池近くに、旧岩崎邸が都立庭園として保存されている。

明治28年に岩崎弥太郎の長男久弥が建てたもので、終戦時にGHQに接収されたが

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その後国に返還され、往時の1/3の規模ではあるが洋館など3棟が残されている。

時代を謳歌していた三菱の邸宅だけあって、英国の建築家コンドルの設計で、

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17世紀英国のジヤコビアン様式風の見事な装飾が施され、三菱の往時が偲ばれる。

三菱の創始者、岩崎弥太郎について考えている。

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広く知られているように、弥太郎は土佐の地下浪人で赤貧の中から立身した人だ。

土佐藩の獄中で同房の商人から算術・商法を学んだことが契機となって活眼する。

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藩執政の吉田東洋に才を認められ、土佐商会の長崎留守居役となる。

その留守居役が、やがて坂本竜馬の亀山社中の経理を任される事になっていく。

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時代は変わって明治6年、廃藩置県が彼にとっては一大転機だったかもしれない。

土佐藩が抱えていた莫大な負債の肩代わりに船2隻を入手し、海運業を興した。

竜馬の目指していた海運会社がベースになっていたのかも知れない。Img_0307

後藤象二郎が藩の借金を弥太郎に押し付けたのだが、これが三菱商会の始まりだ。

彼が財を成すのは、新政府の貨幣全国統一だった。

各藩の藩札を新政府が買い取ることを事前に知って、藩札を大量に買い占めたのである。Img_0308

10万両を工面して暴落していた藩札を買い集めたという。

裏で情報を流したのは後藤象二郎で、

要するに、今で言うところのインサイダー取引で巨万の富を得たことになる。

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その後の三菱商会は、台湾出兵や西南戦争でも輸送業務を独占し、政商として振舞う。

ともかく時代の流れを背景に、明日食べるものすら無いような境遇から、

一代でこの国を代表する財閥になったんだから前代未聞と言うべきか。

その弥太郎は明治18年51歳で没し、弟の小弥太、そして長男の久弥へと代替わりしていく。

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人は所詮時代の制約の中で生きるものだけど、・・・・人間の運命は分からない。

弥太郎は創造的な人物ではなかったように思うが・・・・、

時代の動きを嗅ぎ分ける動物的な感覚と度胸の座った男だったのだろう。

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2014年12月 2日 (火)

極東の華

近代都市東京をマラニックしながら、明治以降のこの都市の変遷を思っていた。

明治以降と言っても、たかだか150年にもならないんだから、つい最近のことだ。

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1853年に東京湾に姿を現したペリーの艦隊は、人々に圧倒的な科学の力を見せ付けた。

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幕末の維新への原動力はその外国からのインパクトであったし、

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以降、その欧米の持つ科学的合理主義への脅威と憧れが、この国を突き動かしてきた。

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明治から昭和にかけては、文明開化と富国強兵にひた走って戦争の辛酸を舐めた。

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戦後は米国の圧倒的な物量と自由経済主義に瞠目したのだが、

殊にマンハッタンの高層ビルや自家用車、食料を含めての諸々の生活用品だった。

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その自由で開放的なアメリカを追い求め、その結露がこの東京になったんだろう。

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この間ずっと「舶来」は憧れだったし、ほんのついこの間まで、ジョニ黒などの洋酒や

英国の洋服生地、アメリカ煙草などと言った舶来品を極上として礼賛してきた。

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そう言えば、到来物のジョニ黒を開けられずに、応接間に飾っていたなぁ~。

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そもそも「舶」の字には、遥々船で運ばれてくる白人文明のイメージがあった。

明治以来、極東のこの列島に住む人々は、誰もがそうやって、

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追いつけ追い越せと深刻な顔付きで生きてきたのだろう。

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グローバルな時代になった今日であっても、それは形を変えて

エルメスやルイ・ヴィトンなどへの憧れとなって続いている。

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それ程に物も思想も、はたまたファッションや芸術も素晴らしいと考えてきたようだ。

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しかし今日のこの東京の姿を見る限り、

舶来と言う言葉は既に死語になったと言えるのではないか。

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英国のロンドンやドイツ・イタリアの都市と比べても、これ程進化した都市は無かろう。

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もっとも、一極集中が際立っているに過ぎないという見方もあって、・・・・・

確かに戦後の日本は、かつての富国強兵と同様の勢いで東京を膨らませてきた。

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結果として地方の人口減少や希薄化、一次産業の衰退を招いたとも言えるだろう。

しかし極東のこの国が、150年でこれほど変化するとは誰が考え得ただろうか?

仮に今、ペリーがお台場の海に再来したとしたら、如何なる言葉を発するだろうか。

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極東の地に世界屈指の都市の華が出現しているのである。

ちなみに極東とは、ユーラシア大陸の東端の更に東のはてであって、

西洋から見ての僻地の表現である。

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2014年11月21日 (金)

汽笛一声から142年

東京駅が開業してから100年だそうだ。

旅人も物資も須らく徒歩か馬車(一部水運があったが)で移動していた江戸時代、

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明治以降の本格的な文明開化は、全国各地に鉄道が張り巡らされてからだ。

鉄道が新橋・横浜間を初めて走ったのが1872〔明治五〕年なのに、

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東海道線の開通はそれから42年後のことになる。

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西南戦争による財政悪化や路線論争などがあって、この時期までずれ込んだからだ。

だが1914〔大正3〕年に東海道線が敷設されると、この国の人の流れは一変していく。

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更に50年後の昭和39年に東海道新幹線が出来て、又新たな時代を創りだしたのだ。

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そうして今まさに、リニア新幹線開通に向けてその工事が始まろうとしている。

鉄道は最も基礎的インフラとして、この国の形を変えてきたといって過言ではないだろう。

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私の遠隔通勤だって鉄道があったから可能になったし、最近年は新幹線通勤だった。

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その電車の中では議論もしたし、読書と言う形で今の私にとって代えがたい時間だった。

ともかくも、電車にまつわる思い出は限りが無い。

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先日、機会あって名古屋市港区金城ふ頭にあるリニア・鉄道館を訪れることが出来た。

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ここには蒸気機関車からリニアまで39両もの実物車両が展示されていて、

各種の映像などと共に、乗車したり運転体験なども楽しむことができる。

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正に鉄道マニアにとっては絶好の遊び場である。

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だが私にとっては、その実物よりも鉄道にかかわる歴史展示の方が興味深かった。

それに鉄道模型の精巧で大規模なミニチュアがリアルに素晴らしい。

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東京から大阪まで実際の都市を俯瞰するようで・・・・、

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都市間や町々を走る各種の電車がそのまんまに再現されて動いている。

まあ、如何に電車が都市の機能と密接に関わっているかって事を言いたいんだろうな。

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そして最後に体験したのが、リニア車両への5分間の試乗である。

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前面や窓には時速500kの画面が流れ、タイヤ走行から浮上走行への変化を体感できる。

浮上走行では全く微動だにしない静かさに驚く。

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これは模型を使っての試乗だけど、今度のオリンピックの折にはこいつが走るんだ。

とは言え、果たして乗る機会があるのかどうか・・・・・未来と言うのは分からないからね。

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兎も角、一度は訪ねてみて損は無い施設だろう。

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2014年11月17日 (月)

弥生の大革命

この日本列島に住む私達は一体何処から来たのかということを考えたい。

人類の歴史は、500~600万年前から猿人・原人・旧人・新人へと進化したとする説、

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否そうでなく、20万年ほど前にアフリカから拡散したとするイブ説まで実に多彩だ。

そのマクロな説は兎も角、この列島には旧石器の縄文の時代から人々が住んでいる。

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その縄文人は、どうやら陸続きとなっていた寒冷期に、

アジア大陸や島嶼部を含む東南アジアからやってきた人々らしい。

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頭蓋骨の形態やDNA分析による埴原らの遺伝学的な研究によって、

原日本人が東南アジアから移り住んだ人々だと言うことが科学的に証明されつつある。

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およそ2万年前の平均気温は現在より7~9度低く、日本列島も大陸と繋がっていた。

マレー辺りに住んでいた原アジア人が、永い年月かけて陸地伝いに移動してきたらしい。

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やがて気温が上昇して大陸と切り離され、独特の縄文人として進化していく。

その永い永い縄文時代を激変させたのは、

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朝鮮半島や中国中南部から海を渡って新たにやって来た人々だ。

その渡来の流れは縄文末期から七世紀まで約千年にわたって続くんだ。

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様々な理由で次々と海を渡ったんだろうが、移住を余儀なくされた権力者の一族

それに付随する一般民衆、更にはボートピープル的な難民がいたんだろう。

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その彼らが稲作などの農耕や金属器、はたまた織物などの技術をもたらした。

この異文化が流れ込んだことで、採集狩猟を中心だった縄文の生活も激変する。

勿論、在来の人々と渡来してきた人々の対立と融合を伴いながらである。

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それに栄養状態の改善で体格も良くなって、人口も爆発的に増えただろう。

縄文人との混血もどんどん進んで、今日の日本人の原型が生まれたのだろう。

やがて農業が生み出す富の集積が権力を育て、この国の基礎が涵養される。

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そして6世紀頃畿内で成立した朝廷は、

大陸の進んだ技術を取り入れる為に施策として積極的に渡来人を受け入れる。

百済や高句麗の人々が大挙してこの列島に移り住んだのはこの頃だ。

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ところで沖縄の人々とアイヌは、縄文人の形質を色濃く残していると言われる。

地理的な影響で混血が遅れたとされ、弥生革命の証明にもなっている。

いずれにしても、この列島では文化的な大転換期が2度あったbことになる。Img_0186bs

この縄文から弥生への大転換であり、もう一度は明治維新後の変化だ。

ともかく、日本人は日本人だけで固有に出来上がった集団でないことは明らかだ。

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2014年8月10日 (日)

日本人の芯棒

植物も人間も芯棒がなくっても生きられるけど、芯棒があれば真っ直ぐ立って居られる。

戦後の民主主義は芯棒のない猿真似ではないかと思っている。

言い過ぎのきらいもあるが、本質を自分のものにしていない点でやはり猿真だろう。

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この国の歴史は、優れた外国の文明を受け入れ咀嚼することで転換してきた。

古くは稲作文明を、そして儒教・仏教や都市づくりをはじめとした中国文明で国を創った。

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そして圧巻は、明治維新以後の二十年ほどだろうか。

社会制度をはじめ、汽車からガス灯に洋服、社交ダンスに石鹸からパンまで、

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「上等舶来」は文明開化とばかりに受け入れ、世界列強たることを悲願に驀進していく。

俯瞰してみれば、それが戦前までのこの国の歴史だろう。

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だがそれでも和魂洋才の掛け声通り、まだまだ武士道や儒教が広く染み渡っていて、

それがこの国に住む人々の芯棒的な規範だった。Img_1633

しかしながら戦争に負けて、過去がすべからく否定される時代になって、

日本人の生き方が根底から覆され、本来失ってはならない芯棒までが悪者にされた。

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倫理と言う言葉すら教育の場から忌避されたし、儒教や武士道は戦犯扱いになったのだ。

代わって気儘な「自由」を謳歌する訳だが、

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それが何時の間にか義務や責任を伴わない自分勝手放題主義になっていく。

ほんの少し前の政変も、悪者を作ってそれを梃に権力を得る手法したように、

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モンスターの如くやりたい放題、言いたい放題、他罰主義がまかり通る時代の到来だ。

欧米諸国の自由は、言うまでもなくキリスト教の教え(芯棒)を前提とした自由である。

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それはボランティア精神や博愛主義だったりと、基本は普遍的な社会規範だ。

神の前では、手前勝手が許されないのは当然のことだ。

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日本でも少なくとも戦前までは、行動規範として孔子の教えや武士道が残っていた。

だから子供の躾だって、卑怯なことはするなとか、嘘をつくな、師を敬えなどと…。

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或いは「孔子はこう言っている、だから守りなさい」などと、かなりの説得力があった。

この私だって母親から教えられて、当時は「かあさんは偉いなぁ~」と思っていた。

だけどそりゃ、みんな修身で教えられたことの受け売りだったようだ。

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しかしながらその受け売りが大切で、売るべき規範を持たない今の親は哀れなものだ。

しこうして今日の子供達は、「人間とはかくあるべきもの」と分からないまま成長してしまう。

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この国は今、物差し(規範)の違う人達の群れになって、右往左往の振幅を広げている。

やはり、「芯棒のない猿真似はだめだよ」と思うのだ。

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2014年6月14日 (土)

宗教国家の夢

奈良時代は聖武天皇の時代、全国60余国に国分寺・尼寺が造営された。

仏教と言う新しい文化で国を治めようとしたのである。

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きらびやかな堂塔伽藍を配し、国分寺には20名の僧侶、尼寺には10名の尼僧をおいた。

僧侶は国の公務員であり、恐らくは豪族の子弟であったろうか。

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仏教国家ブータンを想像している。

かの国では仏教を国教とし、学校は全てお経を唱えることから始まる。

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仏陀の教えに基づいた国の運営だから、山国なのにトンネルが一つもない。

仏の宿る山(神体)に穴を開けることは御法度だからだ。

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だからクネクネとした山道ばかりだし、そこに牛でも寝ていようものなら、

車は牛が退くまでじっと待つしかない。

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輪廻転生で、その牛がこの間亡くなったお爺さんの生まれ変わりかも知れないからだ。

事ほど左様に生き物を大切にする。

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仏教は極めて内を極める優しい宗教であって、

キリストやイスラムの様にやたらと諍いを起こさない。

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聖武天皇が何を思ったのかはともかく、仏教こそがこの国を救いうると考えたのだろう。

ともあれ遠江国の国分寺・尼寺が私の住む磐田市に築かれていたのである。

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741年に東西180m南北253mの回廊の中に、

金堂や講堂、五重塔を持つ壮麗な寺院が生まれた。

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しかし819年に火災があって、そのご再建された形跡はない。

恐らく、聖武帝の崩御と共に次第に国家仏経熱が冷めて行ったのだろう。

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今、この国分寺を再現させようと言う運動がある。

そのグループが中心になって、年に一度国分寺祭りを開催している。

今日がその国分寺祭りで出かけてきた。

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しかしながら、たかだか70年余で忽然と消えてしまった歴史を再建すべきか否か?

歴史とは、本当は自分達の事を考える為にある。

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2014年6月10日 (火)

連判状の伝えるもの

郡上市白鳥町に白山文化博物館があって、そこに傘連判状が残されている。

江戸期には藩主の過酷な年貢取立てに抗して各地で一揆が起こったが、

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中でも郡上一揆はその代表的なもので、農民の死闘の末遂に藩主を更迭させている。

十数年前に「郡上一揆」と言う映画が作られていて、今回改めて観賞することが出来た。

3,500人余エキストラが協力したと言う、中々見応えのある映画である。

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ともあれ、あちこちにシミのある大きな傘連判状を見上げながら、

これに署名する際の村々の代表者の気持ちを考えていた。

事実、この連判を機に一揆は郡上一円に広がり、

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一揆から脱落する百姓を含めて、大変な騒動に発展していくのである。

そもそも江戸期の農民は半農奴の扱いであり、

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一揆の首謀者は大抵死罪と決まっていた。

それでも郡上の百姓達は、

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領主の増税策(検見)に反対して籠訴や箱訴(目安箱)を繰り返す。

命を捨てた訴訟とは切ないものだが、最後は幕府に訴えていく。

余りの騒ぎの広がりに手を焼いた幕府は、遂に領主の更迭を余儀なくされるのだ。

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しかし百姓総代を始めとした主だった者達は死罪・獄門となるのである。

所詮は権力に手玉に取られるのだが、しかし確実に一矢を報いた一揆と言えようか。

しかし、恐らくこの傘判状に名を連ねた人達は、何らかの形で殺されたのではないか。

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郡上は「郡上踊り」で知られる静かな山里である。

山を切り拓いて段々田圃を広げていった農民たち。

その百姓達に米すら食べられない生活を強いた支配階級。

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全てがそうでなかったにしても、連判状は江戸期の厳しい農村の現実を伝えている。

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2014年2月27日 (木)

鳴虎

明渡来の掛軸「鳴虎」を寺宝とすることで知られる京都の報恩寺のことである。

この鳴虎図は文亀元年(1501)に時の後柏原天皇から下付されたものとされ、

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聚楽第に滞在したころの秀吉が度々見に訪れた。

よほど気に入ったのか、その伝来の虎図を聚楽第に持ち帰ったのだが、

その夜掛軸の虎が鳴いて眠れなかったと言い、直ちに返したと言う逸話が残されている。

この軸は寅年の1月3日にだけ公開されてきたものだが、今回精巧な複製が出来て、

今年から何時でも見物できるようになっている。

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ところでこの寺には、黒田官兵衛と息子長政の位牌が安置されている。

元和9年(1623)に徳川秀忠と家光が揃って皇居参内のために上洛した。

この時、相前後して黒田長政も入洛し、この報恩寺を宿舎にしたのだが、

長政は、この寺で持病の発作のために死去してしまった。

それで長政の「最後の部屋」と共に位牌が残ることになったと言う次第だ。

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ともあれ黒田官兵衛は秀吉の謀臣として活躍した男だが、

息子の長政は早くから家康に通じていたと言われる。

と言うのにも訳がある。

秀吉が中国攻めで苦労している頃、荒木村重の謀反事件が起こる。

その村重を翻意させるべく向かったのが黒田官兵衛だった。

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しかし管兵衛は、そのまま石牢に閉じ込められて村重の捕虜になってしまう。

しかし信長は、音沙汰の消えた管兵衛は寝返ったとみて、人質(長政)を殺せと命じる。

秀吉も止む無く長政をあずけていた竹中半兵衛に殺すことを命じている。

しかし管兵衛と入魂の半兵衛は、長政を殺したことにして匿ったのだ。

そんな経緯から、長政は秀吉を憎んでいたのかも知れない。

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ともあれ、その長政や秀吉が眺めたであろう鳴虎図である。

体の毛一本一本まで精緻で、白いむだ毛までがリアルに描かれている。

聚楽第にこの図を掛けた秀吉が、

異国の珍獣に「こりゃ、いかん」と思ったのも無理はないような気がする。

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この京都の小さな寺にも、歴史の一コマが残されていた。

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2014年2月25日 (火)

高台寺と家康

さて時代はずっと下がって、秀吉が秀頼を残して死んで後の事になる。

大阪の権力を奪取するために、家康はあらん限りの策略を巡らす。

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その最大の作戦は、豊臣家臣団の分裂工作だった。

武辺派の福島正則や加藤清正らと、石田光成を筆頭とする官僚派の対立を煽る。

そのお先棒をを担いだのが黒田官兵衛の息子長政だが、

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その大いなる黒子が秀吉の正室ねねだった。

正則や清正はねねが幼い頃から可愛がって育てた武将だ。Dscf0449

だから豊臣家臣団を分裂させるためには、どうしてもねねの歓心をとる必要があった。

俄然家康は、何のかんのと言いつつ寧々のもとに通っている。Dscf0450

結果として、関ヶ原の決戦では彼らをして家康に味方させることになった。

関ヶ原以後天下は江戸に移ったが、それでも大阪城には秀頼が蟠踞している。Dscf0451

これを何とか始末しなければ安心できない。

そんな政治情勢の中で、ねねの隠居所としての高台寺をつくるために家康が尽力した。Dscf0452

寧々も既に大阪の淀君一派を見放していたのだろう。

寧々は、家康の庇護で壮麗を極めた高台寺の時雨亭(茶室)から、

大阪城の火炎を眺めたと言う。Dscf0453

関ヶ原の後、寧々はこの寺で暮らし、関ヶ原から24年後の1624年、76歳で亡くなっている。

高台寺は度々の火災で多くの堂宇が失われたが、

今なお開山堂・傘亭・時雨亭などが当時のままの姿で残されている。Dscf0454

寺の霊屋には秀吉と寧々の木造が安置されているが、

この座像が昨年11月初めて修復され、改めてその実像を彷彿とさせている。Dscf0455

さてこそ歴史は非情なもので、寧々の一生も秀吉以上に波乱に富んでいた。

だけど結果論にしろ、家康に天下を取らせたのには寧々の力も大きかった。Dscf0457

高台寺は、そんな歴史の流れを今も感じさせるところだ。

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